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新紙幣千円札の顔|知っておきたい北里柴三郎という偉人とは
北里柴三郎は、2024年の紙幣デザイン変更に伴い、新しく千円札に肖像画が採用されることになった人物です。細菌学者、教育者、医学者など、さまざまな顔を持つ北里柴三郎がどのような活躍をしたのか、人生をたどってみましょう。
もくじ
・新紙幣の顔に抜擢!ひとことで言うと北里柴三郎とは
・北里柴三郎の経歴
・北里柴三郎の偉業とは
・北里柴三郎はどんな人?
新紙幣の顔に抜擢!ひとことで言うと北里柴三郎とは
端的に言うなら、北里柴三郎は「日本近代医学の父」です。日本にとどまらず、世界的に見ても北里柴三郎は近代医学の発展に大いに貢献しました。
北里柴三郎の偉業には数多くのものがありますが、そのなかでも特に有名なのが「破傷風菌の純粋培養の成功と血清療法(治療法)の発見」と「ペスト菌の発見」です。予防はできても治療方法のなかった破傷風の治療方法を見つけたことも、「黒死病」とも呼ばれて恐れられていたペストの原因菌を発見したことも、大きな功績として世界中で称賛を浴びました。
北里柴三郎の経歴
簡単に、北里柴三郎の経歴を見てみましょう。
1853年 熊本県生まれ
1871年 熊本医学校(今の熊本大学医学部)入学
オランダ人の医師マンスフェルトと出会い、医学を志す
1874年 東京医学校(今の東京大学医学部)入学
1885年 ドイツ留学
1886年 その後も長い付き合いになる医師・細菌学者であるコッホに師事
1889年 破傷風菌の純粋培養に成功
1890年 破傷風の血清療法を確立
1892年 帰国。私立伝染病研究所を設立
1893年 日本初の結核専門病院を作る
1894年 伝染病研究所移転、ペスト菌発見
1899年 伝染病研究所が内務省の管轄の国立研究所になる
1913年 日本結核予防協会を設立
1914年 伝染病研究所が文部省に移管されることになり、所長を辞任、私立北里研究所創立
1917年 慶応義塾大学医学科を創設する、貴族院の議員になる
1923年 日本医師会を創設、初代会長になる
1931年 脳溢血により亡くなる
略歴を見ていて気になるのが、「1914年伝染病研究所が文部省に移管されることになり、所長を辞任」という点でしょう。これは北里柴三郎と東大との間にある、大きな確執から起こったことです。
北里柴三郎は、留学をする前に東大医学部の講師に師事したことがありましたが、この講師が発表した「脚気菌を発表した」という主張に対し、「脚気とは無関係」と反対する論文を出しました。
結局、北里柴三郎の主張のほうが正しかったのですが、これに対して東大は「師事した恩を忘れた行為である」として、北里柴三郎を非難。そして当時、本格的な医学の研究施設が東大にしかなかったにもかかわらず、留学から戻った北里柴三郎の受け入れについて拒否したのです。
このことが原因で、世界中から称賛を浴びていたにもかかわらず、北里柴三郎は日本という国からは冷遇されることになってしまいました。
北里柴三郎の偉業とは
北里柴三郎が残した偉業のうちいくつかをご紹介しましょう。
・血清療法を発見
「傷口を汚いままにしておくと、ばい菌が入って破傷風になる」と言われることがあります。実際に破傷風は、傷から破傷風菌が入り込むことで感染する感染症です。全身に痛みが広がり、息ができなくなって最悪の場合には命を失う危険性もあります。北里柴三郎は、この破傷風の原因となる破傷風菌について、初めて純粋培養を成功させました。
その後、破傷風菌の毒素を無毒化、あるいは弱毒化して少しずつ注射することで、体の中で抗体を作ることができる「血清療法」を生み出します。この血清療法は、画期的な予防・治療法として世界中から注目を集めました。
・香港に渡って2日でペスト菌を発見
香港でペストが流行したときに、内務省から研究のために北里柴三郎が派遣されました。北里柴三郎は到着したあと、たった2日間でペスト菌を発見して、論文を発表しています。この論文は北里柴三郎の恩師であるコッホが追試(論文の内容が正しいかどうかを確認するために同様の実験を行うこと)し、間違いないと確認されました。
・研究所を開設して著名な研究者を多数輩出
北里柴三郎が開設した研究所からは、志賀潔(赤痢菌を発見)や野口英世(黄熱病を研究、千円札の肖像画として採用)などが輩出されています。教育者として数多くの研究者を育てたことも、北里柴三郎の偉業のひとつでしょう。
北里柴三郎はどんな人?
最後に、北里柴三郎に関するエピソードをご紹介します。
・ノーベル賞の有力候補だった
世界から認められる発見をした北里柴三郎は、1901年に創設されたノーベル賞の有力候補者でもありました。しかし北里柴三郎は国の後押しを十分に受けることができず、残念ながら受賞は適っていません。
・「病気を未然に防ぐことが医者の使命」
当時は未発達だった「予防医学」の考え方を強く持っていたのが北里柴三郎です。細菌研究に関しても、「研究は目的の如何に関わらず、実際に役立つ医療・予防の上に結実されるべき」という理念を持っていました。
・福沢諭吉との関係
帰国後、東大に受け入れられなかった北里柴三郎に研究の場を与えたのが、福沢諭吉でした。福沢諭吉とその友人は、福沢の所有していた土地に私財で研究所を設立し北里柴三郎に提供しています。
彼自身が多くの功績を残しただけでなく、教育者として数多くの研究者を育てたことも、北里柴三郎の偉業のひとつです。紙幣デザイン変更を機に、3人の偉人それぞれの歴史に触れてみると、知見を広げるきっかけになるかもしれませんね。
参考サイト
・学校法人北里研究所北里柴三郎記念室|北里柴三郎の生涯 2019.6.20
https://www.kitasato.ac.jp/jp/kinen-shitsu/shibasaburo/lifetime.html
・北里大学北里研究所病院|近代日本医学の父、北里柴三郎 受け継がれる北里精神の原点 2019.6.20
https://www.kitasato-u.ac.jp/hokken-hp/special/dna/hokken_origin.html
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